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農民の服装に対しては

農民の服装に対しては続いて寛永19年(1642年)には襟や帯に絹を用いる事を禁じられ、更に脇百姓の男女ともに布・木綿に制限され、更に紬が許されたそうでもその長さが制限された。更に翌年の「土民仕置覚」では紫や紅梅色を用いる事が禁じられている。その後も寛文7年(1667年)、天明8年(1788年)、天保13年(1842年)にも繰り返し同様の命令が出されている。

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一方、武士や町人に対しても農民ほどの厳格さは無くても同様の規制が行われた。寛文3年(1663年)には「女中衣類直段之定」が定められ、当時の明正上皇(女帝、銀500目)や御台所(将軍正室、銀400目)の衣装代にまで制約をかける徹底的なものであった。天和3年(1683年)には、呉服屋に対しては小袖の表は銀200目を上限とし、金紗・縫(刺繍)・惣鹿子(絞り)の販売は禁じられ、町人に対しては一般町人は絹以下、下女・端女は布か木綿の着用を命じた。た。貞享3年(1686年)には縫に限り銀250目までの販売を許したが、元禄2年(1689年)には銀250目以上の衣服を一切売ってはならない事、絹地に蝋などを塗って光沢を帯びさせる事を禁じる事が命じられた。正徳3年(1713年)には先の「女中衣類直段之定」の制限(朝廷500目・幕府及び大名400目・それ以下300目)の再確認と贅沢な品物の生産と新商品・技術の開発の厳禁が生産・染色業者に命じられる。享保3年(1718年)の「町触」の公布にあわせて奉行所に町人の下着まで贅沢な振る舞いがないか監視するようにという指示が出されている。延享2年(1745年)にも「町人が絹・紬・木綿・麻布以外の物を着てはならず、熨斗目などの衣装を着ているものがいれば、同心は捕えてその場で衣装を没収すべきである」と言う指示が出されている。こうした奢侈禁止令の極致が天保の改革の際の一連の禁令であり、「商工等は、武士・農民の事欠け申さざる程に渡世致し候はば然るべく候」として商工を非生産的な身分であり、都市が繁栄する事そのものが無駄以外の何者でもないと断じて厳しい奢侈禁止令を実施した。

このような指示が度々出されたにも関わらず、命令が遵守されたのは直後のみで時間が経つにつれて都市でも農村でも違反するものが相次いだ。更に、上の身分の者が奉公などの褒賞として下の者に下賜された衣装を実際に着用した場合には、儒教の忠の観念との兼ね合いから黙認せざるを得なかったために、規制を形骸化する根拠を幕府自身が作る事になってしまった例もあったのである。

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2009年05月02日 09:25に投稿されたエントリーのページです。

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